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  モスクワの通り

モスクワの様々な通りについて

モスクワでは、普通に見える通りでも、ちょっと雰囲気の良いカフェでも、何となくきれいだと思って見上げる建物にも、何らかの歴史を持っているものが多い。モスクワでそんな通りを探してみました。時間がとれましたら、みなさんも散策してみてください。


  1. トヴェルスカヤ通り
  2. アルバート通り
  3. ニコリスカヤ通り
  4. ミャスニーツカヤ通り
  5. ボリシャヤ ニキーツカヤ通り
  6. ネグリンナヤ通り
  7. クズネツキーモスト通り
  8. モハバヤ通り

1.トヴェルスカヤ通り

<モスクワのメインストリート、トヴェルスカヤ通り>
(ソ連時代は、「ゴーリキー通り」と呼ばれる。)

14世紀に、当時ロシアの様々な公国の中で、最も、強力な公国の一つの中心であった、トヴェリとモスクワを結ぶ道ができた。17世紀には、すでにトヴェルスカヤ通りは、モスクワのメインストリートとなった。100年後、トヴェルスカヤ通りは、新しいロシアの首都、サンクトペテルブルグへ続く道の始点となった。トヴェルスカヤ通りには、モスクワの上流社会の人たちが住み着くようになった。この通りには、エカテリナ時代のすばらしい邸宅や、高官の屋敷が建つようになった。時がたち、古い通りの様子も変わった。19世紀末、トヴェルスカヤ通りは、モスクワの豪華な商店、菓子店、ファッショナブルなホテル、美容院や縫製会社のあざやかな看板が、よく見受けられるようになった。モスクワで最新で最良なものはすべて、トヴェルスカヤ通りで始まった。

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2.アルバート通り

<アルバート通りは歩行者天国>

「アルバート」という名前が、最初に文献に現れたのは、1493年である。当時、ろうそくの火から、ペスキ(砂の上)のニコライアルバート教会まで拡大した、恐ろしい火事が起こった時である。「カペイカのろうそくのためにモスクワが燃えた。」という有名なモスクワのことわざが生まれたほどひどい火災だった。

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3.ニコリスカヤ通り

<ニコリスカヤ通りは、スラビャンスキーバザールがある。>
(ソ連時代は、「10月25日通り」と呼ばれた。)

この通りは、モスクワの歴史の中で、ロシアの教育通りとして生まれた。この通りの名前は、ここに建っていたが、革命後に、無慈悲に撤去された、ニコリスキー修道院から得たものである。

17世紀末、ニコリスカヤ通りには、スラブ グレコ ラテン アカデミーが開設された。ロシアで最初の高等教育機関の発生地となったのは、ザイコノスパスキー修道院だった。それは、20世紀の20年代に、ニコリスキー修道院と運命とともにした。すなわち、商業スペースに属するところ(7番地および9番地)と、建築家イワノフにより1900年に建設された、もとの修道院の鐘楼の一部(9番地の中央部)だけが保存され、残りは撤去されたのだった。

今日、1872年~1873年に、建築家R.ゲジケとA.ベベルによって建てられた、17番地の建物には、モスクワの有名なレストラン「スラビャンスキーバザール」がある。そのホールでは、1897年の6月に、K.S.スタニスラフスキーとV.I.ネミロヴィッチ・ダンチェンコの有名な面談が行われ、そこで、彼らは、芸術劇場(MHAT)の設立について合意したのだった。

この建物の一部は、ホテルだった。ホテルでは、I.E.レーピンや、P.P.チャイコフスキー、A.P.チェーホフが宿泊した。チェーホフは、たとえば「子犬を連れた貴婦人」の中で、この建物についてふれている。

革命後、スラビャンスキーバザールは、長期にわたり、閉鎖されていたが、再び、その扉を開いた。(2003年8月現在、改築のために閉鎖されている。)

この建物のすぐ後ろの短いトレチャコフスキー通りは、キタイゴラドと、クズネツキーモストを直接つなぐものである。その通りは、1872年にロシアスタイルで建築家 A.S.カミンスキーにより建てられた美しいアーチまで続く。このアーチの発注者は、有名なモスクワの商人であり、慈善家であった、パーベル トレチャコフ、および セルゲイ トレチャコフ兄弟だった。これは、彼らの市に対するプレゼントであり、市議会は、感謝の印として、その門と通りを彼らの名前を付けたのであった。

ニコリスカヤ通りの右側に、ボゴヤブレンスキー ペレウロクがでている。(ソ連時代は、クイビシェフ ペレウロクと呼ばれた)この通りは、そこに、ボゴヤブリョンスキー修道院があったことから名前がついた。この修道院は、ダニーロフスキー修道院に続きモスクワでも2番目に古い修道院である。 1296年に、モスクワ公 ダニール アレクサンドロヴィッチにより設立された。

現在、ボゴヤブリョンスキー修道院の建物で唯一残ったのは、1693年~96年にモスクワバロッコスタイルで建てられたボゴヤブリョンスキー寺院である。


4. ミャスニーツカヤ通り

<ミャスニツカヤ通りは、文化がいっぱい。>
(ソ連時代は、「キーロフ通り」と呼ばれた)

このモスクワの古い通りは、ルビャンカ広場に始まり、環状道路まで続く。16世紀から17世紀、この地域には、肉屋(ロシア語で「ミャスニック」)街があったため、この通りは、ミャスニツカヤ通りと名付けられた。肉屋の住居の隣には、家畜小屋があった。街には、家畜の保護者とみなされていた、聖なるフロルとラブルの古い教会が建っていた。(ミャスニツカヤ通りから当時クレムリンのスパスカヤ門まで直通の道が通っていた。そのためこの門は、17世紀の半ばまでフロルの門と呼ばれていた。)

18世紀の初めにミャスニツカヤ通りをピョートル大帝の4輪箱馬車が通るようになった。そのころからここには、皇帝のお付きの人たちや高貴な人たちが住むようになった。

19世紀の後半に、通りには、大企業の事務所や商店がオープンするようになった。

1934年に、ミャスニツカヤ通りを12月1日に殺された、キーロフ  S.M.のお棺の葬式の行列が通っていった。それを記念して、この通りは、キーロフ通りと改名された。

通りの始めにアーチのついた建物がそびえている。中庭には、お金持ちの木材商人 スタフェエフのために建築家 M.F.ブグロフスキーが19世紀末に建てた、4階建ての家が隠れている。1930年4月14日に、この家の一つの部屋で、詩人 マヤコフスキー V.V.が自殺した。詩人が10年以上も住んだアパートは、現在、記念博物館となっている。

ミャスニツカヤ通りの右側で、ボリショイ ズラトウスチンスキー ペレウロクと交差するところに、1898年に建築家F.O.シェフチェーリによって、有名なドレフスキー陶器工場のオーナーのために建てられた家がある。(番地8/2)ここには、モスクワの陶器をあつかう店のなかで最も良い店の一つ「陶器・クリスタル」が入っている。

右側にいくとボリショイズラトウスチンスキーペレウロクがある。(ソ連時代は、コムソモーリスキー ペレウロクと呼ばれた。)4番地の家で全盛期に、芸術家であり、宝石細工人であるカルムイコフがその友人である商人マズリヌイによって殺された。これは、M.F.ドストエフスキが「罪と罰」において再現している犯罪である。

ミャスニツカヤ通り4番地の家は、詩人D.V.ベネヴィチノフの家だった。1826年にプーシキンは、「ボリス ゴドノフ」を読んだ。白いホールには、当時、M.P.ポゴージン、S.P.シェブイリョフ、スラブ派の人たちが集まった。




26番地の建物には、すでに2半世紀を越えて、モスクワの郵便局が営業している。建物は、1912年に、建築家 O.ムンツエンにより、ベスニン兄弟の参加のもとで、I.V.ペステリという有名なデカブリストの父により1792年に、郵便局のために購入された敷地に、建てられた。

郵便局は、1700年に設立された。その最初の建物は、ミャスニツカヤ通りの、フェオファン プロコポヴィッチに所属する敷地にあった。18世紀の初めに現代の郵便局場所は、メンシコフ公の所有地だった。郵便局は、彼の有名なモスクワの宮殿を建てなおしたものだった。メニシコフの流刑後、彼の領地は、クラキン公に移り、1783年、アルメニア人ラザロフに移り、2年後、国家に郵便局の建設のために売却された。1812年、郵便局とその教会は、退却するフランス兵が建物の周りに熱いわらを投げたにもかかわらず、建物は焼かれないで残った。


ミャスニツカヤ通りの左側、19番地に、浮き彫りの竜と蛇のついた中国風の趣向を凝らした3階建ての建物がある。ここでは、様々なお茶やコーヒーを買いながら、(木の彫刻のカウンターが、金の中国の竜と巨大な陶器の花瓶で飾られた)その一風変わったインテリアを見ることができる、モスクワで、最も良いお店である。

この建物は、建築家 R.I.クレインとK.K.ギッピウスにより、1896年に、お金持ちのお茶商人セルゲイ ペルロフのために建てられた。多くのモスクワの商人達が、中国のお茶の輸入の有利な取引を得ようと期待し、重要な中国の高官の到着を待っていた。中国からのお客様を呼びたいという希望で、セルゲイ ペルロフは、自分のために中国風の家を建てた。彼自身は、別の場所に住んでいた。彼のお茶の店は、モスクワで大評判となった。

21番地の家は、建築家ワシーリ バジェノブイにより、18世紀の80年代に将軍I.I.ユーシェンコフのために建てられた。この家の主人は、フ リーメーソンに所属し、ここでは、そのメンバー達の秘密集会が行われた。




20世紀の20年代に、この建物には、高等芸術技術修理所が入り、芸術作品の修復を行っていた。

ツルゲーネフ広場を越え、ミャスニツカヤは、環状道路まで続いている。右には、チーストプルド並木通りが、左には、スレチェンカ通りがある。

通りの先には、ファサードをアカデミカ サハロフ通りに向いた国家統計委員会の巨大な建物(39番地)がある。それは、1929年から1936年にかけて、フランスの建築家 レ コルビュジエによって建てられたものだ。

国家統計局の反対側の作の向こうには、全く違うモスクワがある。42番地の邸宅は、18世紀末にマトベエエフ カザコフによって建てられたものだ。1820年代に友人宅であるこの家に、グリバエドフが住み、喜劇「理性からの悲しみ」に取り組んでいた。この家で彼は、自分の有名なワルツを書いた。


5.ボリシャヤ ニキーツカヤ通り

<ボリシャヤ ニキーツカヤは音楽通り>
(ソ連時代は、「ゲルツェン通り」と呼ばれた。)

ボリシャヤ ニキーツカヤ通りは、マホバヤ通りから、ニキーツキー門広場をへて、環状道路まで続く。通りの名前は、16世紀末に設立された、由緒あるニキーツキー修道院から得た。修道院は、通りの左側の7番地にあったが、そこには、現在、建築家 フリードマンによって1933年に建設された地下鉄のための変電所が建っている。




隣接する優雅な邸宅(5番地)は、1780年代に、建築家M.カザコフにより、V.G.オルロフ伯爵のために建てられた。彼の孫には、作曲家であり、有名なロマンス曲の著者である、 A.L.グリレフが音楽を教えた。 家庭教師となったのは、将来のデカブリスト V.K.キュヘリベカーだった。

後に、邸宅は、パニン伯爵、メシェルスカヤ公爵夫人、シェレメチボ公に所属した。1934年から1970年にかけて、この建物には、モスクワ大学の歴史学部があり、有名なロシアの学者M.N.チホミロフ、E.A.コスミンスキー、E.V.タルレ、S.V.バフルシンが教えていた。70年代に、学部は、ボロビヨフ丘の新しい建物に移動し、現在ここには、モスクワ大学の出版所がある。

ブリュソフペレウロクには、17世紀の前半に建てられた、すばらしい教会が建っている。この教会には、「死者の処罰」というイコンがある。このイコンの前で、セルゲイ エフロンと、マリーナ ツベタエヴァが結婚式を挙げたのである。この教会は、ソ連時代も閉鎖されずに活動した少ない教会の一つであり、内部は、古いインテリアが保存されている。

ボリショイニキーツキー通りとボズネセンスキー ペレウロクが交差する角に、モスクワでは、「小さい昇天」として知られている、神の昇天教会が建っている。

教会の反対側のすばらしい建物は、モスクワ音楽院である。(13番地)。それは、ロシアアカデミーの創設者であるE.E.タシュコフに所属する邸宅を建て直したものである。1870年代に家は、帝国ロシア音楽協会のモスクワ支部のために購入された。ロシア音楽協会は、1860年にモスクワで設立された。それを指導していたのは有名な音楽家 ニコライ ルビンシュタインである。

1866年9月1日に、教会は、バズドビジェンカ通りにあった男爵夫人 チェルカッソワの家に音楽学校を開設した。そのころまでには、すでに、1862年に創設されたペテルブルグ高等音楽院の最初の卒業生がでていた。卒業生の中には、ピョートル イリイッチ チャイコフスキーがおり、彼は、ただちに、モスクワで教えるために招待された。バズドビジェンカ通りの狭いスペースは、すでに、音楽を教えるには、不都合となったため、授業を、ボリショイ ニキーツキー通りの建物で行うようになった。

1885年から1901年に、高等音楽院の建物は、建築家V.P.ザゴルスキーの設計により再建された。1898年10月の最初に小ホールがオープンした。

中央の建物の高等音楽院の大ホールのオープンニングは、1901年4月4日に、M.I.グリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」の序曲によって行われた。大ホールは、ベートーベン、バッハ、モーツアルト、グリンカ、チャイコフスキーなどの偉大な作曲家の14のポートレートで飾られている。

1940年からチャイコフスキー名称高等音楽院と呼ばれている。1954年に、建物の前に、モスクワ高等音楽院の創設者の一人である、P.I.チャイコフスキーの銅像が設置された。(彫刻家 ビエラ ヌヒナ)

マーラヤ キスロフスキー ペレウロクの隅に、V.V.マヤコフスキー劇場がある。(19番地)18世紀の半ばに建物は、由緒あるストレシュネフ一族に属していた。1885年から1887年に起業家であり、俳優であるゲオルグ パラジスは、自分のオペレッタ劇団のため、この家を借り、劇団のために再建することを決めた。ロシアスタイルのその再建を引き受けたのは、K.B.トベルスキーと若いF.O.シェフテリである。

1920年の秋に、V.E.メイエルホルドに率いられた革命風刺劇場が開設されたが、1922年に革命劇場に、改組された。

ニキーツキー広場の門にでるところに、モスクワでは、「大いなる昇天」と名付けられた神の昇天を祭る大きな教会がある。

1831年2月18日に、まだ建設が終了していない教会の玄関で、プーシキンは、ナタリャ ゴンチャロヴァと結婚した。

教会は、1931年に閉鎖された。プーシキンについての思い出があったため、教会は撤去から免れたが、ソ連時代は、ひどく痛めつけられた。すべての内部のインテリアは破壊され、多くのイコンが焼かれてしまった。

しかしながら、「大いなる昇天」を、ギリシャ正教の教会は信じていた。「大いなる昇天」教会から近いところ、左側に、小さなフェオドル スツージットの小さな教会が隠れていた。それは、モスクワでももっとも古い教会の内の一つである。それは、1626年に建設された。

ニキーツキー バロット広場に、小さな邸宅のファサードが向いている。そこには、現在、A.M.ゴーリキーの家博物館が入っている。(マールイ ニキーツキーとスプリドノフカの角の第6/2番地)モスクワモダンの傑作は、20世紀の初め、建築家 F.O.シェフテリにより、起業家S.P.リャブシニスキーのために建てられた。これは、中にはいり、贅沢なインテリアやすばらしい階段を見ることができる、数少ないモスクワで保存されている邸宅の一つである。

マールイ ニキーツカヤ通り(ソ連時代は、「カチャロヴァ」と呼ばれた)から右側に、保存されなかったスピリドニヤ教会のために、そうよばれた、由緒あるスピリドノフカ通り(ソ連時代は、「A.トルストイ通り」と呼ばれた)が始まる。その左側には、もう一つのF.シェフテリの建築作品が建っている。それは、19世紀末に建設された、サワ モロゾフの邸宅である。(17番地)

1921年の秋に、50番地のアパートに、モスクワの最初の住居を後に、ロマン「巨匠とマルガリータ」で、永遠に忘れられないものとした、若いミハイル ブルガコフが引っ越してきた。

ニージュヌイ スプリドニエフスキー ペレウロクを通り、スプリドノフカから、ブロンナヤ村のためにそのように名付けられたマーラヤ ブロンナヤ通りに出ることができる。ブロンナヤ村では、昔、ロシアの戦士のために武器が製造されていた。

この両ブロンナヤ通りと、パアラシェフスキー ペレウロクの間は、モスクワの「ラテン地区」と呼ばれた。前世紀に、通りの左側の部分を、貧しいモスクワの学生達が借りていた、安いアパートのある家々が占めていた。(13番地にの家は保存されていた。)

マーラヤ ブロンナヤの左側に、いくつかの大きな池のある村、パトリアルシェがあった。ニコン宗主教教会のために、そこでは養魚が行われていた。その3つの池の中で現在残っているのは、全モスクワ中で有名な池だった。

マーラヤ ブロンナヤを通り、大環状線にでることができる。その10番地の家は、伝統の家だった。1903年に、建築家A.N.マルコフとE.I.ユジツキーにより、たばこ工場「デュカット」のイリヤ ピギトのために、建てられた。

1921年に芸術家 G.ヤクロフの38番地のアパートでセルゲイ エセイニンは、アイセドラ ドンカン(エセーニンの愛人)と知り合いになった。

この家には、工場主 アンナ ピギトの娘のアパートがあった。1917年に、彼女のアパートには、一時的に、親友である、ロシア社会革命党員である、(レーニンを撃った)ファニー カプランが移り住んだ。


6.ネグリンナヤ通り

ペトロフカ通りに平行してネグリンナヤ通りが通っている。その通りの名前は、ネグリンナヤという川の名前から来ている。通りの右側に急に盛り上がっているところは、1818年に地下のパイプに押し込められた川の名残である。歴史的なネグリンナヤ通りは、通りの右側の6番地の家に始まる。そこには、M.S.シェプキン名称モスクワ劇場学校がある。建物自身は、M.カザコフの設計に基づき18世紀末に建てられたものである。




7.クズネツキーモスト通り

昔この通りは、ネグリンナヤ川岸沿いにあった。ネグリンナヤ川には、クズネツキー橋が架かっていた。15世紀末に、鍛冶屋達(クズネツ)が、昔のモスクワでもっとも大きい冶金会社である、プシェチュヌイ ドボールにいくために、毎日橋を渡ったことからきている。19世紀の初めに、工場は、解体され、その場所に一時期、1812年の祖国戦争の勝利を記念して、救世主教会を建てようと計画された。そこで、橋は解体されたが、その橋の思い出は、通りの名前に残された。

クズネツキーモストは、最も有名な外国のお店の、とりわけフランスのお店の集まる通りとなった。エカテリーナ2世が、外国人に対する特権についての命令書に署名した、。18世紀半ばには、すでに、フランスの貿易商達が、モスクワに住み着いた。ナポレオンの軍隊がモスクワにやってくる前に、クズネツキーモストのフランス人の商店は閉鎖された。が、彼らは、フランス軍が同国人を警備したため、1812年の火災から全く被害を受けなかった。

クズネツキーモストでは、昨日、どこかで、ワルツを踊っていたが、今日は、道路を掃除しているような、偉大なソ連の紳士、淑女をみることが、以前、できた。というのは、泥酔やスキャンダルのために逮捕された人たちは、彼らの素性にかかわらず、警察につれていかれ、中に十字のある円を背中に描かれ、ほうきをもって通りに追い出されたからだ。彼らにとって恥ずかしい罰と感じるように、彼らは、最も流行で優雅な通りである、クズネスキーモスト通りを掃除させられたのだった。


8.モハバヤ通り

昔ここには、木造家屋の隙間をふさぐための乾燥苔(ロシア語で苔のことを「モフ」と言う)を売る、商品街があった。そのため、通りはモハバヤという名称がついた。

通りには、1817年に、エンジニアA.A.ベタンクルの設計により建てられた、マネージュ(馬場)がある。1824年から1825年に、建築家 オシプ ボヴェにより、アンピール様式で、内装工事がされた。アンチックな柱と戦士のシンボルのある厳格な施設は、ナポレオン戦争の勝利を記念して建てられたものである。マネージュは、パリへの勝利の遠征から戻った戦士達のパレードで盛大にオープンを迎えた。

マネージュでは、軍事訓練が行われ、建物は、非常に収容力が大きかったため、ここでは、一つの連隊まるまるが、演習を行うことができる。一時期、ここでは、乗馬が行われた時があり、ここで、若き日のL.N.トルストイは、乗馬を学び、歳をとってから彼はここで自転車を乗るのを覚えた。





 
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