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モスクワのおもな見所

モスクワの主な観光スポットをご紹介しましょう。


  1. クレムリン
  2. クラスナヤ プローシャジ
  3. レーニン廟
  4. 無名戦士の墓
  5. 救世主キリスト聖堂
  6. ノヴォジェデヴィッチ修道院
  7. モスクワ大学
  8. モスクワ シティ
  9. イズマイロフのベルニサージュ
  10. オスタンキノのテレビ塔

1. クレムリン

「クレムリン」と聞いて何を連想しますか?一般に、ニュースを聞いていると、旧ソ連共産党政権、または、ロシア政権をイメージする人々が多いのではないかと思う。実際、「クレムリン」は、政治の中心としての役割をしており、「クレムリン」には、かつてソ連共産党大会や中央委員会総会に用いられたクレムリン大会宮殿や、現在のロシア連邦大統領府がある。また、大クレムリン宮殿は、現在、外国政府要人、国家元首との会見に用いられている。
「クレムリン」とはロシア語で「城塞」を意味する。(ベリーキー ノブゴロドの「クレムリン」、スーズダリの「クレムリン」、ニージュヌイノブゴロドの「クレムリン」、ロストフベリーキーの「クレムリン」、プスコフの「クレムリン」等、ロシアの古い町には、あちこちに「クレムリン」がある。)モスクワの「クレムリン」は、単に、政治的中心であるだけでなく、長いロシアの歴史・文化・宗教の中心としての役割を果たしてきたことに注目していただきたい。

<赤い煉瓦の壁で有名な、クレムリンとはロシア語で城塞を意味する。モスクワは、かつて、「白い石造りのモスクワ」と呼ばれた時期があった>
モスクワのクレムリンは、モスクワの昔からの中心である。現在のクレムリンは、赤い城壁で囲まれた内側である。クレムリンは、過去3度にわたり拡大された。
最初に、1156年、モスクワ川岸のモスクワ川とネグリン川の合流地点に、モスクワの設立者である、ユーリー ドルゴルーキーの命令に基づき、木造の要塞の壁が建てられた。クレムリン(ロシア語で「城塞」を意味する)は、土塁で強化された。敵の侵入、悲惨な火災により、クレムリンの木造の壁は、著しく痛んだため、何度も何度も建て直された。しかし、当時、クレムリンの領域には、すでに、石造りの寺院があったにもかかわらず、壁は、常に木造で建設が行われていた。
1366年~1367年、モスクワのドミートリー イワノヴィッチ公(ドンスコイ公)は、クレムリンの周りを、白い石で強化するように命令した。この時以来、モスクワは、「白い石造りのモスクワ」と呼ばれるようになったのだった。

<煉瓦造りのクレムリンはイタリア人建築家達の功績だ>
「白い石造りのモスクワ」は、タタルモンゴルに対する勝利の後、赤い煉瓦で新しいクレムリンが建設されるまで続いた。建設を行うための十分な知識をロシアの職人達がもっていなかったために、イワン三世 ワシリエヴィッチは、妻のソフィアのアドバイスに従い、アリストテリ フィオラバンチを頭とする、アントン フリャジン(アントニオ ジァルジ)、マルコ フリャジン(マルコ ルッフォ)、ピョートル フリャージン(ピエトロ アニトニオ ソラリ)、アレビス フリャージン ソタールイ(アロイジヤ ダ カルカノ)のような、イタリア人建築家達を雇用した。彼らの名前に共通する姓は、彼らが、親戚関係にあるからではない。ロシアでは、その時代「フリャギ」、または、「フリャジン」とは、すべてイタリア人のことをそう呼んでいたからだ。大部分の塔や壁は、イタリアの職人達によって建てられたが、いくつかの小さな塔の建築の特徴から見ると、ロシアの職人達も小さな塔を建設することができたのだという結論を出すことができる。

クレムリンの塔

<クレムリンの塔は、防衛のための施設だ>
現在、クレムリンの壁、長さ、2,235メートル、厚さ、3.5メートル~6.5メートル、高さ、5メートル~19メートルで、不規則な三角形の形をなしている。壁の上には、四角の板が組み立てられた、2メートル~4メートルの幅の戦闘用の入り口がある。壁の上には、高さ2メートル~2.5メートル、幅65センチメートル-70センチメートルのギザギザが、1045もある。入り口の上には、1737年の火災の際に焼けてしまったが、木造のとんがった屋根がついていた。

クレムリンの壁には、様々な高さ、形、スタイルの塔が20もそびえている。角にある、3つの丸い塔(ボドブズボドナヤ、ベクレミシェフスカヤ、アルセナリナヤ)は、平面な壁より大分前にでており、全周防御の目的があったと言える。6つの中間的な塔、スパスカヤ、ニコリスカヤ、トロイツカヤ、ボロヴィツカヤ、タイニツカヤ、コンスタンチノ・エレニンスカヤは、最も強力な防御施設である。橋の手前にある、中に銃兵が入る塔、(現在、そのような塔としてクタフィヤだけが保存されている。)、石造りの砦、跳ね橋など、すべて防衛に関係している。吹き抜けの門には、下降式の柵が設置されていた。中間の9つの密閉した塔には、門がなく、前線の戦いのためあった。南および西から壁への接近は、モスクワ川とネグリンナヤ川で防護されており、(現在の赤の広場側から)東側に、幅30メートルの堀があった。モスクワ川の川岸と堀の両側は、1508年から1516年に、ギザギザの先のついた追加の壁で強化された。17世紀に、ニコリスカヤ塔を除き、すべての塔は、尖塔が上につけられ、跳ね橋が石の橋に代わり、東の壁には、装飾的なツアールスカヤ塔が建てられた。

<スパスカヤ塔の上には、ルビーの星が輝く>
クラスナヤ プローシャジからクレムリンの左側にスパスカヤ塔がある。1650年代、スパスカヤ塔の上に、ロシアの紋章である、双頭の鷲が設置された。ルーシの国家シンボルとしての、ビザンチンの双頭の鷲のマークが初めて現れたのは、1497年のイワン3世の印章だった。後日、ロシアの紋章は、クレムリンの通路にある最も高い塔、ニコリスカヤ、トロイツカヤ、ボロヴィツカヤに設置された。1934年に、それらは、ウラルの貴石からできた赤い星に代わったが、貴石は、すぐに輝きを失ってしまった。そこで、1937年に、新しいルビーの星に交換され、ボドヴズヴオドナヤ塔にも設置されたため、星の数は、5つとなった。スパスカヤ塔にあった、貴石の星は、ヒムキの北部水上駅の建物の尖塔において見ることができる。このルビーが本物であるかどうかは、周りのロシア人に聞いたがだれも答えてくれなかった。

タイニツカヤ塔

<クレムリンの中でももっとも古い塔であるタイニツカヤ塔には、秘密の地下道があった>
もっとも古いクレムリンの塔である、(高さ38.4メートルの)タイニツカヤ塔は、アントニオ フリャジンにより、1491年に建設された。クレムリンの南壁のチェシュコフ門に建てられたこのタイニツカヤ塔は、イワン三世の時代の15世紀のクレムリンの防衛強化の始まりとなった。当初、この塔は、モスクワ川の側へ続く地下道を備えた通過塔だった。モスクワ川の側からは、アーチ型の橋で連結された別の塔が防御していた。そこには、秘密にしつらえた井戸が籠城の際の水の供給のために設置されていた。1770年のクレムリン宮殿の建設の際、いくつか他の部分も含め、壁が撤去され、1862年に、再建の際、橋なしで、第2の塔が建てられた。1930年に、塔の門が閉められ、秘密の通路は埋められてしまった。

スパスカヤ塔

<スパスカヤ塔はクレムリンのシンボル>
美しい広場(クラスナヤ プローシャジ)に面している、高さ71メートルのスパスカヤ塔は、クレムリンのシンボルである。クレムリンの塔というと、必ず、この美しい塔の写真がとられる。1491年にピエトロ アントニオ ソラリにより建設されたこの塔は、17世紀の半ばまで、フロル・ラブロ教会が隣接していたため、フロロフ塔と呼ばれていた。1658年に皇帝ツァーリの特命により、塔は、スパスカヤ塔と改名された。新しい名前は、クラスナヤ プローシャジ側の門の上にあった、スパス ネルコトヴォルヌイのイコンに関係していた。クレムリンが城塞としての意義を失いはじめた、16世紀から18世紀において、様々な塔に時計が設置された。しかし、今日まで残った時計は、英国人クリストファー ゴロベイの指導のもと、ロシアの鍛冶工・時計職人達によって、1625年に設置された、スパスカヤ塔の時計だけだ。時計の文字盤の針は、無かった。文字盤自身が、特別なマークのところに、回転して、時刻を指した。1706年~1709年に、ピョートル1世の命令により、時計は、オランダ製のものに代わり、 その時計は、19世紀の半ばまで存在した。現在の時計は、1851年~1852年にブデノプ兄弟が製作したものである。

時計の文字盤は、直径6.12メートルで、塔の4面についている。それらの、枠、数字、針は、1937年に金メッキがほどこされた。ローマ数字の高さは、0.72メートル、時計の針の長さは、時間を示す針が2.97メートル、秒針が、3.27メートルである。

スパスカヤ塔は、現在公用の入り口であり、政府要人、外国要人が通過する門である。

ツアールスカヤ塔

<ツァールスカヤ塔は、クレムリンの中でも最も新しく、小さい塔だ>
(風見がついている高さ16.7メートルの)ツアールスカヤ塔は、最も新しく、最も小さい塔である。ここには、いつだったか小さい木造の塔があった。伝説では、イワン雷帝は、この塔から、(特にげんこつ戦や、処刑などの)クラスナヤ プローシャジ(美しい広場)で行われる、イベントを眺めるのを好んだそうだ。特別の祝賀の際、皇帝ツアーリは、ここから集まった民衆の前に姿を見せた。ここには、クレムリンの下に行く地下道や、国家犯罪者のための拷問部屋があった。1680年に、木造の塔の場所に、石造りの塔が作られた。

セナツカヤ塔

<セナツカヤ塔は、クレムリンをクラスナヤプローシャジ側から防御する>
(高さ34.3メートルの)セナツカヤ塔は、スパスカヤ塔のすぐ後ろ、レーニン廟の向こう側に、建築家ピエロ アントニオ ソラリにより建てられた。セナツカヤ塔は、クレムリンをクラスナヤ プローシャジ(美しい広場)側から防御するという特別の軍事上の機能があった。長い間、塔には名前がなかったが、1787年に、クレムリンの領域に、建築家M.カザコフの設計により、丸天井に、ひらめく旗が、赤の広場からよく見える、元老院の建物が建設された際に、その名前を得た。

ニコリスカヤ塔

<ナポレオンの軍隊によって爆破されたニコリスカヤ塔>
クラスナヤ プローシャジ側からクレムリンの城塞をみて左側、スパスカヤ塔の反対側に、ニコリスカヤ塔がある。星のついた高さで70.4メートルのニコリスカヤ塔は、1491年にあの建築家ソラリによって建設された。その名前は、あるデーターでは、門の上にあった、ニコライ チュドトヴォルツのイコンに関係しているとのことだ。また、ニコリスカヤ通りにあった、ニコリスキーギリシャ修道院に関係あるというデーターもある。19世紀初めに、K.I.ロッシの設計に基づき、塔は、透かし編みの装飾と高い尖塔のあるゴシックスタイルで再建された。1812年に、塔の上部は、フランス人達が撤退する際に爆破されたが、1816年、建築家ボヴェの設計で復活された。1917年の戦闘で塔は、ひどく被害を受けたが、建築家N.V.マルコヴニコフの指導の下、再び復活された。

アルセナリナヤ塔

<アルセナリナヤ塔には秘密がいっぱい>
アルセナリナアヤ塔は、アレクサンドル庭園からの高さが60.2メートル。この塔により、建築家ソラリは、1492年に、クラスナヤ プローシャジ側からのクレムリンの防御戦略を終了した。建築家の考えに基づき、この塔は、最も強力な塔とならなければならなかった。塔は、18のカットがあり、壁の厚さは、約4メートルで、軍事上4階建てになっている。しかし、塔は、単に軍事上の機能を果たしただけではなかった。その地下には、今日まで秘密の井戸があり、長期間の籠城の際、要塞の守備兵が利用できるようになっていた。ここには、のちに、埋められてしまったが、ネグリン川への秘密の地下道があった。当初、この塔は、地主 ソバキンの屋敷が、クレムリンに隣接していたため、ソバキナ塔と呼ばれたが、18世紀初めに、クレムリンの領域で宮殿兵器庫(アルセナル)が建設された後、名前が変わった。

トロイツカヤ塔

<トロイツカヤ塔とクタフィヤ塔。2つの塔を結ぶ建築アンサンブル>
クレムリンの名所旧跡として、トロイツカヤ塔とクタフィア塔がある。これは、アーチ橋で連結されている、通過塔(トロイツカヤ塔)と橋の前の塔(クタフィア塔)からなる建築アンサンブルであり、現在、唯一保存されているものだ。マネージュ広場から、クタフィア塔を通り、橋を渡り、トロイツカヤ塔を通り、クレムリンの領域にはいることができる。現在、クタフィア塔の両脇にクレムリンへ入るチケット売り場がある。このような2つの塔と橋のアンサンブルは、以前は、モスクワのクレムリンのすべての塔で見られたものだった。(星からの高さ80メートルの)トロイツカヤ塔は、クレムリンの北西の壁の中央にある。その建設により、建築家 アレヴィス フリャジン スタルシイーは、1495年~1499年にかけて、ネグリンナヤ川から(現在の、アレクサンドル庭園側から)の補強工事を終了した。トロイツカヤ塔はクレムリンの塔の中でもっとも高い塔である。トロイツカヤ塔の外観は、スパスカヤ塔に何となく似ている。塔は、4角で、5つの戦略上のフロアと拷問所として使われていた2つの地下のフロアがあり。書類によれば、1585年に、ここには、すでに、時計があったが、1812年にナポレオン軍の侵入の際、火災で時計が焼けてしまったということだ。クレムリンの最後の修復作業の際、トロイツカヤとボロヴィツカヤ塔に、時計が設置された。現在のトロイツカヤ塔の名前は1658年に、トロイツカヤ屋敷(修道院が他所にもつ寮つき教会)から得たものである。その時まで、塔は、様々な名称があった。リゾポロジェンナヤ、ズナメンスカヤ、カレトナヤ等、それぞれの教会とクレムリンの庭園の名前により、そんな名前がついていたのだった。クタフィア塔の名前は、その形に派生するものである。「クタフィア」という言葉は、「ちびで太った女」を意味する。この塔は、16世紀の初めに、ネグリン川にかかる橋を防御するために、建設された。塔は、戦略上二つのフロアからなっていた。フロアを分ける天井は、1780年に破壊された。1685年に、この塔は、上部が、透かし模様の装飾飾りで飾られている。

ボロヴィツカヤ塔

<クレムリンのもっとも古い入り口、ボロヴィツカヤ塔>
クレムリンの観光客用の出入り口は、トロイツカヤ塔とボロヴィツカヤ塔である。なお、スパスカヤ塔は、公用の出入り口である。
星つきの高さが、54.05メートルのボロヴィツカヤ塔は、ピエトロ アントニオ ソラリにより、1490年に、クレムリンの最も古い入り口として、ボロヴィツキー丘に建設された。塔の名前は、ボロヴィツキー丘から得たものである。17世紀末、この塔には、風見が羽ばたいていた。ボロヴィツカヤ塔は、その形が、カザンのシュシュベックの塔を思い起こさせる。ボロヴィツカヤ門は、実用的な意味をもっていた。そこを通って、クレムリンの日常運営用の建物、ジトヌイ(穀物倉庫)、コニューシュヌイ(厩舎)に行っていた。

ボドブズボドナヤ塔

<ボドブズボドナヤ塔は、クレムリンの水道局>
(星つきの高さ61.85メートルの)ボドブズボドナヤ塔は、建築家 アントン フリャジンにより、1488年に建設された。これは、クレムリンの最も美しい建築物のうちの一つである。現在の名称を得たのは、1633年、モスクワ川の水をクレムリンに供給するためのポンプ機が設置された後だった。以前この塔は、クレムリンの中にある、スヴィブロヴイ貴族の屋敷が隣接していたため、スヴィブロフ塔と呼ばれていた。これは、モスクワで最初の水道であり、上階におかれたタンクから、水が、クレムリンの庭に供給されていた。1812年、フランス軍が後退する際に、フランス軍は、塔を爆破したため、1816年~1819年の修復工事が行われ、その工事には、建築家ボヴェが参加した。

クレムリンの残りの塔は、基本的に軍事上の役割を果たしていた。それらのうちの二つは、名前さえない。クレムリンの南側の塔の多くは、エカテリーナ2世の命令によるボリショイクレムリン宮殿の建設の際、一時的に、撤去されたが、その後復活された。とりわけ、(高さ34.15メートルの)最初の名前のない塔が、宮殿工事のため被害をうけたが、破壊された後、復旧され、建設しなおされた。現在、この塔は、当初あった場所より、より左側の場所にある。塔の多くには、大きな地下室があり、そこは、牢屋や倉庫として利用された。要塞の籠城の時の地下道を防ぐために、また、軍事上、周辺の音を聞くために、利用されていた。

アルセナール

<宮殿兵器庫(アルセナール)>
クレムリンの領域、トロイツカヤ塔の隣に、1701年に、ピョートル1世により、武器や装備の保管のために作られた宮殿兵器庫がある。また、宮殿兵器庫は、しかるべく皇帝ツァーリの命令書が署名された戦士達の名誉博物館とならなければならなかった。現在、宮殿兵器庫の壁に沿って、武器庫の建物から1960年に、ここに、移された16世紀から17世紀の大砲がならんでいる。

元老院

<元老院(ロシア連邦大統領府)。天井の堅さは、建築家のお墨付き>
宮殿兵器庫の右側に、1776年から1788年に、有名なモスクワの建築家、マトヴェイ カザコフにより建てられた、ロシア古典様式の、元老院(ロシア連邦大統領府)の建物がある。

建設が終了した際、建築家、カザコフ自身がその頂上にのぼり、1時間以上も高いところにいて、その強度を証明したため、クレムリンの長官は、建物の上の巨大な天井の強度について疑いを持たなかった。天井は、金メッキの勝利をもたらす聖ゲオルギーの形で装飾をつけられていたが、その装飾は、1812年の火災の際に焼けてしまい、つい最近復旧された。

この宮殿は、かつてレーニンが居所としていたが、現在は、ロシア連邦大統領府として使用されている。現在は一般的に非公開。

クレムリン大会宮殿

<世界で最大、クレムリン大会宮殿>
宮殿兵器庫と元老院の間に、元老院広場があり、その広場の反対側には、現代的な大会宮殿の建物がそびえている。この宮殿は、劇場ステージの大きさでは、世界でもっとも大きな建物であり、6000人の聴衆を収容することができる。かつては、ソ連共産党大会や中央委員会総会に用いられていた。現在、このステージには、常時、クレムリンバレエが公演を行っている。時々ここでは、ロシアおよび外国のアーチストのコンサートが行われている。

サボールナヤ広場

<サボールナヤ広場はクレムリンのもっとも古い広場>
サボールナヤ広場は、クレムリンのもっとも古い広場であり、クレムリンの建築アンサンブルの中心である。この広場は、15世紀の後半に出来たものである。ここには、モスクワおよび全ロシアの主な聖地となった聖堂があった。昔、サボールナヤ広場では、大がかりな教会の祝日の時に、戴冠式や行進が行われていた。

ウスペンスキー大聖堂

<モスクワで地震の被害を受けた、ウスペンスキー大聖堂>
広場の中心には、5つのネギ坊主のある、ウスペンスキー大聖堂がある。この大聖堂は、モスクワの主要な聖堂である。その聖堂は、クレムリンにおいて、イワン カリタの時代にすでに建設されたものだった。1326年8月4日に、大聖堂の起工式が行われ、翌年、イワンカリタは、偉大なクニャージ(公)の権利を獲得し、モスクワは、ウラジーミルスーズダリ公国の首都となり、その後、全ルーシ(ロシアの古い名)の首都となった。15世紀末に、聖堂は、老朽化してしまったため、1472年に、プスコフの建築家、クリフツォフとムイシュキンが、新しい大聖堂の建設にとりかかった。2年後、ほとんど建設が終了していた大聖堂が、突然、崩壊してしまった。モスクワに、本当にまれな地震が起きてしまったためだ。そこで、建設は、イタリア人建築家アリストテリ フィオラバンチに依頼された。モデルとしてとることが決まったのは、ウラジーミルのウスペンスキー大聖堂である。1475年に、新しい大聖堂の建築が開始し、1749年に寺院は、府主教ゲロンチエにより、神聖化された。ここには、ユニークな古い絵画作品が保管されている。ビザンチンの「ウラジミル生神女マリア」(11世紀)、イコン「聖ゲオルギー像」(12世紀)。「三位一体像」などである。イワン雷帝の玉座もある。

1547年に、ウスペンスキー大聖堂では、ロシアの最初のツァーリ、イワン雷帝の戴冠式が行われ、1721年からここでは、ロシア皇帝の戴冠式が行われていた。共産党政権後、大聖堂での礼拝は中止され、1918年に、パスハの時に、V.I.レーニンの個人的な許可で、礼拝が行われたにすぎない。1941年12月にファシストが、モスクワ近郊にいた際、スターリンは秘密に、ウスペンスキー大聖堂で、国を占領者から救うための祈祷を命じたという伝説がある。

ブラゴベシェンスキー聖堂

<ブラゴベシェンスキー聖堂は、ロシア皇帝の守護聖堂>
ブラゴベシェンスキー聖堂は、ロシアの皇帝ツアーリ達の守護聖堂であった。ここで、皇帝達は、結婚式を挙げ、後継者となる赤ん坊の洗礼を行った。聖堂は、1484年~1489年に、巨匠クリブツォーブイとムイシキンにより建設された。1480年代、イワン三世の時、プスコフの巨匠は、古い基礎の上に煉瓦で新しい3角の聖堂を建てた。1562年~1564年に、寺院は、火災の後、復興され、この際、聖堂の上に2つのネギ坊主が加えられ、4つの角に、それぞれネギ坊主のついた尖塔が増設された。イワン雷帝の時代にブラゴベシェンスキー聖堂の左側から、屋根付きの回廊ができ、その場所に、皇帝ツアーリは、ミサの際に立っていた。聖堂の南の部分には、別個の礼拝堂があった。教会の規則を違反し、4回結婚した、イワン雷帝は、一般の礼拝の際に寺院に出席する権利がなかったからだった。まさに、この聖堂のポーチからイワン雷帝は、空に流星を見、この流星が彼の死を預言していると思った。数日後、彼は、なくなったという伝説がある。

ブラゴベシェンスキー聖堂の壁画の特徴は、キリストの教えに近い、哲学上の金言の書かれた巻物を手にもった異教徒の賢人、アリストテリ、フキジド、プルタルフ、プラトン、ソクラテスが描かれている。

この聖堂は、フレスコ画、イコンでも有名。アンドレイ ルブリョフ、フェオファン・グレーク等のイコンがかかげられている。

クラノヴィータヤ宮殿

ブラゴベシェンスキー聖堂の隣に、モスクワの建物の中でもっとも古く、宗教に無関係な建物が今日まで残っている。それは、グラノヴィータヤ宮殿である。それは、1473年~1490年に建築家 マルク フリャジンとピョートル フリャジンによって建てられた。建物の壁には、多面(グラネンヌイ)の石からできているため、その名前が付いたのである。伝統的にここでは、戴冠式の正餐が行われた。グラノヴィータヤ宮殿で、イワン雷帝は、カザン占領を祝い、ボリス ゴドノフは、オランダの王子イオンを受け入れ、彼のもとに自分の娘を嫁に出した。宮殿には、豪華な石のライオンで飾られた、大きな玄関があったが、1930年代に、玄関は破壊され、その場所に、クレムリン食堂の建物が建てられた。1947年に、モスクワの記念物としてはじめて、この玄関が復旧された。

アルハンゲリスキー聖堂

大天使ミハイルを奉った、アルハンゲルスキー聖堂は、偉大なクニャージ(大公)とロシアの皇帝ツァーリの遺体安置所である。聖堂の建設は、イタリアの建築家 アレビズ フリャージンの指導のもと、1505年に始まった。3年後、聖堂は、人間の精神の守護者であるアルハンゲル ミハイルが奉られた。クレムリンの遺体安置所に最初に葬られたのは、その創設者 イワン カリタであり、フリャジンが建物を建てるまでに、ここに立っていた古い聖堂に安置されていた。ここには、53の霊廟があり、イワン カリタから、ピョートル1世の兄弟である、イワン アレクセイビッチまでクニャージ(ロシアの大公)や皇帝ツァーリが葬られていた。時代とともに、首都がペテルブルグにうつり、皇帝達は、ペテロパブロフスキー聖堂の遺体安置所に葬られるようになった。唯一の例外となったのは、1730年モスクワで結婚式の前日に突然亡くなったピョートル2世だった。

アルハンゲリスキー聖堂の南の壁の外側に、石の地下室がある。その壁は、大クレムリン宮殿の建設のために、V.I.バジェノフの設計に基づき、巨大な基礎穴が掘られた際に、ひびがはいった。この有名な建築家の設計により、クレムリンの多くの古い建築物が破壊され、クレムリンの領域すべてを、新しい宮殿の庭とすることが予定されていた。幸いなことに、エカテリーナ2世には、そのような巨大な建設を実施するための資金が不足したため、建設は停止された。

イワン大帝の鐘楼

イワン大帝の鐘楼は、3つの聖堂(ウスペンスキー聖堂、ブラガベシェンスキー聖堂、アルハンゲリスキー聖堂)が鐘楼を持っていなかったため、建てられた。1329年から、この場所には、モスクワで最初の鐘楼-ヨアン レストヴィチュニク教会が建っていた。イタリアの建築家 フリアツインにより1505年から1508年に、ヨアン レストヴィチュニク教会の新しい鐘楼が建設された。ここから、鐘楼の名前が起きた。最初、それは、2フロアからなっていたが、1600年に、ボリス ゴドノフの命令で鐘楼は、増築され、その高さは、81メートルになった。救世主キリスト聖堂が建てられるまで、その鐘楼は、昔のモスクワでもっとも高い建造物であったし、モスクワでは、イワン大帝の鐘楼より高い建物を建てることを禁止していた。

イワン大帝の鐘楼は、ウスペンスキー鐘楼に隣接している。ウスペンスキー鐘楼は、1532年~1543年にイタリアの建築家 ペトロクにより建てられた。イワン大帝の鐘楼には、19世紀半ばにつくられ、クレムリンの鐘の中でもっとも大きい、大ウスペンスキー鐘がある。

昔、イワン大帝のころ、現在、鐘の皇帝が建っている場所からイワン広場があった。そこでは、大声で人々に対して、皇帝ツァーリの命令書が読まれていた。

鐘の皇帝

<だれもその音を聞いたことのない、鐘の皇帝>
この広場の、イワン大帝の鐘楼の近くに、有名な鐘の皇帝がある。これは、全ロシアの鐘の中でもっとも大きい鐘であるが、モスクワは、決して、この鐘の音を聞いたことがなかった。鐘の皇帝は、1734年~1735年のあいだ、ウスペンスキー鐘楼のために、イワン モトリヌイと、ミハイル モトリヌイ父子によって作られた。1735年5月にモスクワに火災が起きた時、鐘は、まだ、鋳造中だった。火事の炎を消そうとした水が、誤って鋳造中の穴におち、鐘にひびがはいってしまい、12トンもの重さのかけらができてしまった。

長年にわたり、ひびの入った鐘は、イワン広場の深い穴の中にあった。1836年に、モスクワにフランスの建築家 モンフェラン(モンフェランは、ペテルブルグのイサク寺院の建設者でもある。)が、鐘を穴から取り出すためにやってきた。まもなく、鐘の皇帝は、取り出され、台座に乗せられ、人々は、ロシアの鋳造作家達の創作芸術を眺めることができるようになった。

大クレムリン宮殿

サボールナヤ広場から、ロシアの皇帝達が、モスクワに来たときに滞在していた、大クレムリン宮殿まで歩いて行くことができる。大クレムリン宮殿は、1840年代に、建築家K.A.トンにより建てられた。トンは、救世主キリスト聖堂の創設者でもある。

武器庫、ダイヤモンド庫

<一度は訪れてみたい、武器庫、ダイヤモンド庫>
建築家トンは、1844年~1851年に、ボロビツキー門側から宮殿に隣接する、武器庫の建物を建てた。昔、武器庫は、クレムリン製作所と呼ばれ、武器等が制作されていた。ピョートル1世の際、クレムリン製作所の活動は停止した。1709年、ポルタワの戦いの後、ピョートル1世は、戦士の名誉をたたえる博物館設立のために、モスクワの武器庫に、すべての戦利品の武器や、戦士の鎧、旗を渡すよう命令した。時とともに、武器庫は、現在のロシアの宝石庫となり、そこには、戦利品や、ツァーリの王冠、教会の必需品一式が展示されるようになった。展示品の中には、ユーリー・ドルゴルーキーの銀杯、ピョートル1世までのロシアのツァーリが冠った有名な王冠、ロシアの最初の女帝エカテリーナ1世の王冠、13~18世紀の玉座等がある。

19世紀の半ば(1844年から1851年)に、新しい武器庫の建物が建てられた。武器庫は、モスクワで最初の博物館だった。武器庫の展示物の延長として、「ダイヤモンド庫」の展示がある。その展示ケースには、ロシアのダイヤモンドのユニークな宝石がある。展示物のなかには、エカテリーナ2世のために、金、銀、ダイヤモンドや真珠で作られた王冠や、世界中にそのダイヤモンドの大きさで有名な「オルロフ(ワシ)」「シャフ(シャー)」「ボリショイ ブケット(大きな花束)」、18世紀にダイヤモンドとエメラルドで作られた女性のためのすばらしい装飾品などが展示されている。展示会では、ヤクートのダイヤモンドや、現代宝石芸術の作品も見ることができる。


2. クラスナヤ プローシャジ(美しい広場)

クラスナヤ プローシャジに見るロシアの歴史
クラスナヤ プローシャジ(美しい広場)は、モスクワ、および、全ロシアの中心となる広場である。クラスナヤとは、ロシア語で「美しい」を意味する。(ロシア語で「クラスナヤ ジェブシュカ」とは、「美しい娘さん」のことである。)

クラスナヤ プローシャジは、クレムリンの北東の壁から、クレムリン通路と、ボスクレセンスキー門通り、ニコリスカヤ通り、イリインカ通り、バルバルカ通り、クレムリン河岸通りの間にある。クレムリン主要な門前では、おそらく、14世紀の後半には、すでに、市が立っていたのではないだろうか。クレムリンの門前の市についてはじめて書物に書かれたのは、1434年である。

1493年のモスクワの大火災の後、イワン3世は、新しいクレムリンの壁の前の約240メートルの地帯を、防火と防御目的で建物を撤去するよう命じた。城下の商工地区の側より、この何も建てられていない場所が、将来のクラスナヤ プローシャジの基礎となった。1508年~16年にかけ、クレムリンの壁に沿って、ネグリン川の水で満たされた、幅36メートル以上、深さ10メートル~12メートルの壕が掘られていた。クレムリンの通過塔から、壕の上に橋が架かっていた。クレムリンと城下の商工地区との間の境界にある広場がモスクワの商業地区となったが、長い間、ここには、商業施設はなかった。16世紀に、広場の南部分には、木造のトロイツイ教会が建てられた。(ここから、トロイツカヤ広場の名前が始まった。)

(1535年から1538年の)キタイゴラドの壁の建設にともない、クラスナヤ プローシャジは、キタイゴラドが境界となった。16世紀の半ばにこの広場は、建築上非常に重要な特徴を獲得した。それは、堀のそばのポクロフスキー聖堂(1555年~61年にかけて建設された、聖ワシリー聖堂)である。クレムリンの壕にそって、(広場で処刑が行われていたためそのような名前がついた)「血の上の」木造の教会が建てられた。おそらく、広場にロブノエ メスタがあらわれたのは、16世紀だろう。このロブノエ メスタより、ツァーリや総主教の命令や判決が民衆に読み上げられた。ボリス ゴドノフの時に、ロブノエ メスタは、彫刻模様や鉄の扉や柵のついた石造りで作られた。

 ボリス ゴドノフの命令により、1595年に広場の東側に、最初の石造りの商業施設が建てられ、それらのファサードは、広場に向かい、クレムリンの壁に平行してのびていた。

 17世紀に、町の生活における広場の役割は、拡大し、建築都市計画上の特徴が豊かになった。ニコリスカヤ通りのはじめに、ポーランド軍の侵入に対するモスクワの勝利を記念して、1636年~37年にカザン寺院が建設された。1624年~25年に、フロロフスカヤ(スパスカヤ)塔は、尖塔が増築されたり、彫刻で装飾された。その門を通ってツァーリや総主教の祝賀行列が行われた。最も豪華な行列のうちの一つは、(キリストがエルサレムに入城したことを記念する)聖枝祭りの日曜日の「ロバの行進」である。その行進は、クレムリンのウスペンスコエ聖堂より、スパスカヤ通り、パクロフスキー聖堂へ向かった。行進に参加したのは、総主教、ツァーリ、たくさんの上流階級の人々、聖職者達、銃兵達、聖歌隊、子供達である。広場の北側にある、キタイゴラドのボスクレンスキー門を通り、外国の大使達が到着した。広場は、丸太が敷き詰められ、広場には、にぎやかな市が開かれていた。スパスカヤ門のあたり、壕にかかっている橋の上では、本や版画が売られ、ニコリスカヤのあたりでは、ブリヌイやピロシキが売られていた。スパスカヤ門の反対側、大砲の備えるために、つき固められた場所には、居酒屋があり、ニコリスカヤの大砲を備えるためにつき固められた場所には、クワスやりんご、ブーツ、ろうそくを売っている売店があった。ロブノエ メスタのそばでは、麻布、シャツ、白パン、クワスを売る商人達が集まっていた。

広場の北側の(ボスプレセンスキー門のあたり)の行政区域には、給与支払い窓口小屋があり、南の部分、パクロフスキー聖堂とスパスカヤ門の間には、チウンスカヤの小屋(モスクワの様々な教会を運営しており、税金や関税は、ここに入ってきた。)があった。1679年~80年に、広場は、防火のため、建物が撤去され、木造の教会はこわされ、それらの宝座は、パクロフ聖堂に移された。その時、(ニコリスカヤ塔を除く)クレムリンの塔が増築された。1689年に、ヴァスクレセンスキー門が増築され、地方行政の石造りの建物が建設された。(まもなくその建物には、中央薬局が入り、1753年~55年に、それは、D.V.ウフトミスキーにより大学に改装された。)石造りのマネートヌイ ドボール(銀行)が建設された。1702年~3年にニコリスキー門の近くに、一般の人が入ることのできる劇場、「コメジイナヤ ホロミナ(喜劇の大邸宅)」が設置された。この建物は木造で、1720年~30年まで存在した。中央薬局には、居酒屋「カザンスカヤ アウステリヤ(カザンの居酒屋)」が建て増しされた。1707年~8年に、スウェーデンの侵入の脅威にそなえ、クレムリンの壁の前は、砦のある土塁が築かれた。(クラスナヤ プローシャジに壕が掘られ、土塁が築かれた。)

1700年~21年の北方戦争の勝利により、クラスナヤ プローシャジには、凱旋門が建設された。(現在、凱旋門は残っていない。)1780年代には、クラスナヤ プローシャジの再建が始まった。(木造の建築物が撤去され、商業アーケードのファサードが改装され、壕にそって2階建ての商業施設が建てられた。)ロブノエ メスタは撤去され、以前の場所より東側の今の場所に移された。2階建てのアーケードの間で、クラスナヤ プローシャジは、閉鎖され、縦長の印象を受けた。1804年に、玉石で舗装された。ナポレオン1世軍の侵入による破壊の後、上部アーケードは、建築家 O.I.ボヴェの設計に基づき1814年~15年の間に復旧された。壕のそばの商業店舗は撤去され、壕自身も埋められた。クレムリンの壁のそばには、2列の木が植えられた。1818年に上部商業アーケードの中央のポーチの前にK.ミニンと、D.ポジャルスキーの像が設置された。(彫刻家 I.P.マルトス)クラスナヤ プローシャジはだんだんと商業的機能を失っていった。ここでは様々な祝賀や人々の歩行者天国が行われるようになった。

クラスナヤ プローシャジが著しい変化を体験したのは、19世紀の第4四半期だった。1874年から83年に歴史博物館が建設された。(建築家 V.O.シェルビド、エンジニア A.A.セミョーノフにより)1888年~93年に上部商業アーケードの新しい建物が建設された。中規模のアーケードも作られた。(1889年~91年)。1892年に広場は、電灯がともされた。1909年にクラスナヤ プローシャジにクレムリンの壁にそって市内電車が走った。(そのレールは、1930年に撤去された。)

10月革命後、クラスナヤ プローシャジは、新しい、記念的意義を得るようになった。1917年11月10日に、クラスナヤ プローシャジは、モスクワで革命に参加して亡くなった人たちの記念葬儀が行われた。1918年から、クラスナヤ プローシャジは、パレードやデモ行進を行う場所になった。(ここで1941年11月7日に行われたパレードでは、参加者は、パレードからそのまま戦場に向かったとのことだ。)セナツカヤ塔の前には、演壇がもうけられた。(最初は木造、その後煉瓦造りとなった。)1924年にクラスナヤ プローシャジは、臨時の木造のレーニン廟が建設された。(レーニン廟は、建築家 シュセフの設計により、1930年に石造りとなった。)1930年代、クラスナヤ プローシャジは、敷石で舗装され、演壇が設置され、カザン寺院とボスクレセンスキエ門が撤去された。(これらは1994年から1996年に復活された。)ミニンとポジャルスキーの像がパクロフスキー聖堂のほうに移動され、グム(デパート)のファサードの前の交通の動きが開始した。1938年に、クラスナヤ プローシャジには、ワシリエフスキー坂が含まれるようになった。

ポクロフスキー聖堂(聖ワシーリ聖堂)
ポクロフスキー聖堂は、ユニークなモスクワの聖堂である。この聖堂は、ヨアン ボゴスロヴの啓示に描かれた、神の王国である、聖書上の新しいエルサレムの建築上の形である。寺院のアイデアは、深い宗教上のシンボルに基づいている。中央のネギ坊主を囲む、8つのネギ坊主は、計画では、8角の星を形作ることになっている。8という数は、キリストの復活の日のシンボルである。

ポクロフスキー聖堂の運命は、何度となく、瀕死の状況にあったが、そのたびに、災難を免れて残った。伝説では、ナポレオンは、このポクロフスキー聖堂をパリに持って行きたかったそうだが、当時、その課題を実行する技術が無かったとか。フランス軍が撤退する前、ナポレオンはこの聖堂をクレムリンと一緒に爆破するように命令した。モスクワっ子が、火のついた導火線を消そうとしたとか、突然降り出した雨が爆発を止めたとか、この聖堂に関する伝説はつきない。

革命後もポクロフスキー聖堂は、ボリシェビキの犠牲になるところだった。1918年9月、共産党政権は、聖堂の主任司祭を射殺し、聖堂の資産を没収し、すべての鐘を鋳直し、聖堂自身を閉鎖した。30年代に、ラザリ カガノヴッチは、祝祭日のデモを行い、車両をクラスナヤプローシャジに通すため、パクロフスキー聖堂を撤去することを提案したが、幸いそれは免れた。

ロブノエ メスト
聖ワシーリ聖堂の左側にロブノエ メストがある。これは、柵で囲まれた白い石でできた円柱の台である。この台は、16世紀の前半にここに現れ、ここから、ツアーの命令書が読み上げられたり、重罪人に対して判決を言い渡し、処刑が執行された場所である。



3. レーニン廟

レーニン廟は、赤の広場の中心、クレムリンの壁側にある。これは、ソ連の建築家シューセフの古典的作品である。レーニン廟の形は、シンプルで、暗い赤い御影石と黒い曹灰長石による、表現豊かな階段状のモニュメントである。
当初、廟は、木材で作られていたが、1929年に御影石に変えられた。レーニン廟の向こうのクレムリンの壁には、ソ連時代の活動家が葬られている墓がある。


4. 無名戦士の墓

1966年12月、ファシストに対するそれ赤軍の勝利25周年を記念して、アレクサンドル庭園に、無名戦士の遺骨が埋葬された。1967年5月8日に、無名戦士の墓に、記念建築が設置された。レニングラードの燃えた火が、クレムリンの壁まで届けられた。亡くなった戦士に敬意を払いながら、結婚式を挙げたカップルが無名戦士の墓を、訪れている。




5. 救世主キリスト聖堂

ロシアは、ギリシャ正教国である。宗教の歴史の根本は、ビザンチンにさかのぼる。ロシア以外に、ギリシャ正教は、セルビア、チェルノゴリヤ、ブルガリア、ギリシャで普及した。ギリシャ正教の特色は、寺院が、ロシア正教のイコンで飾られていることである。なお、カトリックの教会は、イエスキリストの彫刻がある。

ロシアの主たる寺院は、1812年の戦争を記念して、1839年から1883年にたてられた、救世主キリスト聖堂である。しかし、1931年12月5日に救世主キリスト聖堂は、ソ連の「宮殿」をそこにたてる目的で、ソ連政府の命令に基づき爆破された。「宮殿」をつくるというアイデアは、ソ連社会主義共和国第一回大会1922年に起こった。台座は、415メートルの高さ、直径129.5メートルなければならなかった。台座のてっぺんには、(80メートルの高さの)レーニンの銅像が計画された。「世紀の建設」は、1937年から1941年継続した。結果として、「宮殿」の場所には、冬でも泳ぐことのできる、スポーツプール「モスクワ」が建設された。

春になるとお湯がとまってしまう時、人々は、好んで、プールに通った。救世主キリスト聖堂の再建は、1995年から2000年に続いた。新しい建物は、103.48メートルの高さの以前の聖堂より高くなった。聖堂には、1万人もの人々を収容することができる。聖堂の壁の厚さは、3.2メートルと厚い。夜は、美しくライトアップされている。


6.ノヴォジェデヴィッチ修道院

ノヴォジェデヴィッチ修道院は、1524年にワシーリ3世公により、モスクワとスモレンスクの連合を記念して、設立された。主要な聖堂は、スモレンスキー聖堂であり、その建設は、おそらく、イタリア人建築家 アレヴィズ フリャジンが、クレムリンのウスペンスキー聖堂をモデルに建てたと思われる。

モスクワでもっとも豊かな修道院である。修道院は、1922年に活動を停止したが、1944年に、ノボジェーデウィッチ修道院は、1994年に宗教活動を開始した。ミサは、ウスペンスキー聖堂で行われている。

ノヴォジェデヴィッチ修道院に隣接するお墓には、有名人のお墓がたくさんある。最近では、ゴルバチョフ夫人も埋葬されている。作家では、ゴーゴリ、チェーホフ、ブルガーコフ、マヤコフスキー、作曲家では、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチ、歌手ではシャリャーピンの墓がある。




7. モスクワ大学

モスクワ大学は、ロシアでもっとも古い大学である。モスクワ大学は、1755年に創設された。モスクワにおける大学が創設は、ロシアアカデミー会員 ミハイル ヴァシーリエヴィッチ ロマノソフ(1711年から1765年)の優れた学術活動によるものである。そのため、1940年に、185周年の記念を祝して、大学は、ロマノソフ名称モスクワ大学となった。

現在、モスクワ大学は、21の学部と300以上の講座がある。現在、モスクワ大学では、31000人以上の学生達、7000人以上の大学院生が学び、5000人以上の専門家が専門技術の向上に励んでいる。

モスクワ大学の国際的なつながりは大きい。モスクワ大学は、国際大学協会のメンバーであり、60以上の海外の学術センター、ヨーロッパ、アメリカ、日本、中国、その他のアジア諸国、オーストラリア、ラテンアメリカ、アラブ諸国の大学と直接の協力契約がある。

1946年から、大学には、最初の留学生が現れた。150の海外の国々の11000以上の専門家達が卒業していった。毎年、モスクワ大学では海外の2000人以上の学生や大学院生が学んでいる。400人以上の留学生が、外国人のための予備教育を受けている。

60以上の海外の学者、国家政治活動家が、モスクワ大学の名誉博士・教授に選ばれた。モスクワ大学の沢山の学者達は、海外の化学アカデミーや大学の名誉会員であることを付け加える必要がある。


8. 国際モスクワビジネスセンター「シティ」

モスクワ国際ビジネスセンター「モスクワシティ」の枠の中で、ロシアおよび東欧ではじめて、ビジネスと住宅と休息を兼ね備えたビジネスゾーンが作られようとしている。

モスクワ国際センター「モスクワシティ」には、以下が計画中である。

  • 2.5百万平米のオフィス、ホテル、貿易、レクレーション施設
  • 最新のテレコミュニケーションシステムと技術を備えたIT空間
  • エネルギー節約技術、独自の電気や給湯システム
  • 地下鉄、高速地上トランスポートの建設を含む、現代輸送システム
  • 多層および多機能の空間利用

現在は、モスクワ川にかかる歩道橋と一部のオフィスビルが完成した。完成までには、時間がかかるかもしれないが、新しいモスクワを知るためには、一見したいところである。




9. イズマイロフのベルニサージュ(ロシア民芸品市)

イズマイロフのベルニサージュは、展示会「イズマイロフのベルニサージュ」と手工芸センター「ロシアの旅籠」より構成されている。ベルニサージュは、展示販売活動と同時に、文化娯楽・歴史教育機能を果たしている、大規模かつ、発展する、ロシアの民芸および手工芸センターである。

展示会「イズマイロフのベルニサージュ」は、創作、装飾芸術作品、「グジェリ」「ホフロマ塗り」など世界中に有名なロシアの民芸品や、イコン、彫刻、伝統絵画、現代絵画などが展示即売されている。

潜水服やソ連国旗に並んで、銑鉄のアイロン、トロフィー、カメラ、ウズベクの絨毯、がらくたもどきも売っている。商品が並ぶキオスクの間を外国人旅行者が人混みをかき分けながら歩いていく。

ここでは、洋銀のコップたて、ガラスビン、売り手の説明では中国製だという、革命前の到来物もあるとか。

手工芸センター「ロシアの旅籠」は、民芸芸術発展分野におけるもっとも巨大プロジェクトの内の一つであり、ピョートル時代前のロシア木造建築スタイルでの建築アンサンブルとして作られている。すでに、現在、これは、教育、生産、貿易、文化歴史および娯楽のセンターでもある。このセンターには、ロシアの地方の沢山の文化が集中されている。

休日、および祭日には、ここでは、民族衣装を着た女性の歌や、民族武闘が行われている。ゲームと娯楽のためのステージでは、訓練された熊の芸を見ることができるかもしれない。


10. オスタンキノのテレビ塔

モスクワの北東部にオスタンキノのテレビ塔がある。ユニークな塔のその構造上の著者は、エンジニアN.ニキーチンである。彼は、ソ連社会主義共和国国立勲章をこの作品のために受領した。

このテレビ塔は、独特の優雅なアーチを描く、10もの支えにより地面に支えられている。これらの10本の「足」が、55トンもの施設を確実に支えているのである。通常の天気では、塔の先は、垂直から2メートル離れ、強い風の時は、4.25メートルまでずれる。しかし、塔は、かみなりにも耐えることができる。風が吹くときは、11.65メートルずれることができるように考えられている。

旅行者用の高速エレベーターが展望台まで上がっている。展望台より、街がよく見える。328から334メートルの高さのところに、3階建てのレストラン「シジモエ ネーバ(7番目の空)」がある。レストランは、ゆっくり回転しており、お客は、絶え間なく変わる風景を楽しむことができる。塔の高さは、540メートルである。 2000年に火災にあい、その後閉鎖さされ、修理が行わた。修理は終了したが、残念ながら、2005年8月現在、レストランも展望台もオープンしていない。





 
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